祇園祭

7月1日~31日 八坂神社

京の夏の風物詩

コンコンチキチン、コンチキチン、コンコンチキチン、コンチキチン…祇園囃子は、京都に夏の到来を告げる音色です。
山鉾巡行を山場とする京都の祇園祭は、大阪の天神祭、東京の神田祭と並んで日本の三大祭と言われます。
古くは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれ、東山区祇園に位置する八坂神社の例大祭です。

その発祥は1100年前に遡ります。貞観11年(869)、疫病が流行した際、疫病退散を祈願したのが始まりです。
当時、疫病は怨霊や疫神のしわざとされていました。神を祭り、その勘気を鎮めることによって悪疫から逃れられると考えられていたのです。「これは祇園牛頭天王の祟りである」として、当時の国の数-66ヶ国にちなんだ66本の鉾を神泉苑に立て、神を祭り、さらに神輿を送って災厄の除去を祈りました。
そして、天禄元年(970)に「毎年の儀」となって以来、千年余にわたって、各山鉾町の町衆によって受け継がれてきています。

戦乱や大火などで幾たびか消失した山鉾もありますが、一部を除き、町衆の手によって復興再建されてきました。
山鉾を装飾する絢爛豪華なタペストリーや絨毯には、祭を支えてきた京の町衆の経済力が伺えます。
17日の巡行を終え、祭の熱気が去る頃、梅雨が明け、京都も夏本番を迎えます。

祭礼日程と祭の主役

祇園祭というと、宵々山、宵山と17日の山鉾巡行がすべてだと思われていることが多いのですが、実は1日の「吉符入り」から7月31日の「夏越祭」までの1ヶ月間に渡る祭礼です。また、観光の目玉となっているのは各山鉾の壮麗な巡行ですが、実は山鉾は神輿の露払いであり、神事の主役は17日夜に行われる神幸祭の神輿渡御(みこしとぎょ)です。かつては、神輿が八坂神社から四条京極のお旅所へ渡る「さきの祭」である神幸祭、お旅所から八坂神社へ還る「あとの祭」の還幸祭として、17日と24日の2日にわたって山鉾巡行が行われていましたが、現在の交通事情をふまえ、17日に統合されました。今ではあとの祭の代わりに花笠巡行が行われます。

祇園祭スケジュール

日程 行事 場所 内容
1日~5日 吉符入り 各山鉾町 祇園祭の安全を祈願する儀式。祭りに関する打ち合わせもこのときに行われる。
1日 長刀鉾町お千度 八坂神社 長刀鉾町の稚児関係者が稚児を従え、八坂神社に参拝して神事の無事を祈願。
2日 くじ取り式 京都市役所 17日の山鉾巡行の順番を決める。
山鉾町社参 八坂神社 各山鉾町の代表者が、祭礼の無事を祈願するために八坂神社へ参拝。
10日~14日 鉾建て・山建て 各山鉾町 鉾や山が組み立てられる。
10日 お迎提灯 神輿洗の神輿を迎えるため万灯会員が提灯を立てて巡行する。鷺舞・小町踊などの披露もある。
神輿洗 四条大橋 神輿を担いだ行列を作り、大松明をかざして四条大橋まで向かい、橋の上で汲みおいた鴨川の水で神輿を清める。
12日~15日 鉾曳初め・山舁初め 各山鉾町 祇園囃子を奏でながら、各山鉾町近辺を試し曳き、試し舁きする。本番の巡航では曳けない子供、女性、一般の人も参加できる。
13日 稚児社参 八坂神社 長刀鉾の稚児が馬に乗って八坂神社を参詣し、五位少将、十万石大名の「お位」を頂戴する。
久世駒形稚児社参 南区久世の綾戸国中神社から、胸に駒形(馬の首)をかけた駒形稚児が社参する。2人いて、1人ずつ17日の神幸祭と24日の還幸祭に供奉する。
14日~16日 宵山 各山鉾町 山鉾に駒形堤灯を灯し、お囃子が始まる。各山鉾町の町屋では、表を開け屏風などの美術品を飾る。
15日 伝統芸能奉納 八坂神社 今様、日本舞踊、狂言、箏曲、剣舞、詩吟、琵琶、石笛、京木遺等の奉納を行う。
16日 献茶祭 八坂神社 表千家、裏千家が1年交代の奉仕により献茶祭が行われる。
神剣拝載 大政所御旅所 15日午後6時に長刀鉾の長刀は大政所御旅所(烏丸仏光寺下る)に移され、16日午前10時に大政所町での祭典の後、町内外の人に拝載させ悪疫退散の祈願をする。
八坂神社 鷺舞・石見神楽鷺舞、雌雄の鷺の舞を中心に、棒ふり、赫熊を舞う。午後7時には石見神楽、素戔鳴尊(スサノヲノミコト)の大蛇退治の舞いを行う。
南観音山町 午後11時頃、「あばれ観音」と称し、観音像を荒々しくかついで町内を回る。
17日 山鉾巡行 午前9時より長刀鉾を先頭に各町を出て四条烏丸→四条河原町→河原町御池→新町御池と巡行する。
神幸祭 午後4時、八坂神社3基の神輿が氏子区内を巡行、午後9時~10時の間に四条御旅所に着輿する。その後24日までお旅所に留まる。
18日~21日 狂言奉納 八坂神社 学生狂言研究会により狂言の奉納。
23日 献茶祭 八坂神社 京都市内の煎茶道家元の輪番奉仕による献茶祭。
琵琶奉納 八坂神社 琵琶協会の人々により琵琶の奉納等す。
24日 花傘巡行 傘鉾10基あまり、獅子舞、武者、馬長列等を整え所定のコースを巡行、八坂神社に戻って、舞踊を奉納。昭和41年から廃止された「あとの祭」の代わり。
還幸祭 17日、お旅所に渡った神輿3基が氏子区内を巡行、三条御供社で祭典、神輿に灯を入れ、午後9時~10時頃の間に本社に還幸する。
25日 狂言奉納 八坂神社 茂山忠三郎社中の人々による狂言の奉納。
28日 神輿洗 四条大橋 四条大橋で神輿を清めた後、格納。行事としては10日にある神輿洗と同様。
29日 神事済奉告祭 八坂神社 祇園祭の終了を奉告し神恩に感謝。
31日 疫神社夏越祭 八坂神社内
疫神社
「祭神蘇民将来の護符を奉持する者は疾病より免れしめる」という故事により、参詣者は鳥居に設けた2mの茅の輪をくぐって厄気を祓い護符を授かる。
※蘇民将来

動く美術館~鉾と山~

発祥当時は66基の山鉾がありましたが、現在巡行しているのは鉾が9基、山が23基。鉾の最大のものは重さ12トンにもなりますが、その組み立てには釘を一切用いません。縄だけを使って、「縄がらみ」と言われる伝統の手法で組み立てます。毎年組み立て、解体してしまうのですから、釘を抜き差しするよりも簡単で合理的です。そして、縄を用いて組み上げることによって、柔軟な構造に仕上がり、巡行に耐えられるのです。もし釘や金具を使った場合、囃子方などを含めて20トンにもなる鉾に車輪を付けて動せば崩れてしまうと考えられます。この縄がらみも、山鉾によって違う手法があり、伝えられてきた技の美が感じられます。

鉾は屋根に長大な鉾(槍のような武器)を戴き、高さ約25メートル、4つの車輪は直径約2メートル、2階に囃子方を乗せます。山は、鉾よりは規模が小さく、1.2~1.6トン程度。屋根に松(太子山は杉)が立てられます。山のうち3基は車輪が付いた曳山(ひきやま)、残りは人がかつぐ舁き山(かきやま)です。各々縁起に関連した御神体を乗せ、曳山には鉾と同じく囃子方が乗ります。

各山鉾に立てられた鉾と松は、悪鬼や疫神を吸い寄せるための依代(よりしろ)です。本来は疫病神と一緒に鉾や松を焼き捨てていたようですが、山鉾が豪華になるにつれ、そうもいかず、江戸時代以降は早々に片付ける習慣となりました。そのため、山鉾巡行は午前中に終わり、各町内へ帰ると即解体、収納されます。
各山鉾とも、祭神の縁起や由来により、縁結びや魔除けなど、それぞれ異なる護符(ごふ)を配っています。希望の護符を求めての宵山見物も良いのでは。

各山鉾解説

名前 護符 所在 縁起・特色
【長刀鉾】
なぎなたぼこ
疫病除けのちまき 四条通烏丸東入ル長刀鉾町 鉾先に大長刀をつけているのでこの名で呼ばれる。祭の初期の形をよく残している。「くじ取らず」と言われ、八坂神社に最も近い所に位置するため、巡行の順番決めの籤をひかず、毎年必ず先頭を行く。昔は船鉾を除くすべての鉾に稚児が乗ったが、江戸時代以降人形に代わり、今では生稚児(いきちご)を乗せるのは長刀鉾のみ。鉾に乗った稚児が、四条通りに張られた注連縄を切り結界を開くことによって巡行が始まる。祇園祭を代表する鉾として人気がある。長刀は、三条小鍛冶宗近が娘の病気の回復を祈願して八坂神社へ奉納したものと伝えられるが、現在では宝物として保管され、竹に漆銀箔押しの複製を使用。前掛は『ペルシア華文緞通』。胴掛は中国緞通の『玉取獅子』 いずれも18世紀の作。
【函谷鉾】
かんこぼこ
四条通烏丸西入ル凾谷鉾町 戦国時代中国の故事、「鶏鳴狗盗」(『史記』)より。斉(せい)の武将・孟嘗君(もうしょうくん)が泰を逃れ、函谷関(かんこくかん)を越えようとしたが、深夜のため関が閉ざされていた。この関は早朝、鶏の声を合図に開けられるので、家来に命じて鶏の鳴きまねをさせたところ、それに続いて本物の鶏も唱和したため、門が開き、一行は無事追っ手から逃れられたという。鉾頭は山と三日月。これは山中の深夜を表している。真木の中程にある天王座に孟嘗君と雌雄の鶏を戴く。前掛は、旧約聖書創世記より「イサクの嫁選びの図」を描いた16世紀末のベルギー製タペストリー(ゴブラン織)で、重要文化財。稚児は一条実良(明治天皇の皇后の兄)をモデルにした稚児人形第1号の『嘉多丸(かたまる)』。
【菊水鉾】
きくすいぼこ
不老長寿商売繁盛のちまき 室町通四条上ル菊水鉾町 町内の金剛能楽堂内にあった「菊水の井」にちなんで命名された。鉾頭は上向き十六弁の菊。天王座には長寿の仙人「彭祖(ほうそ)」を戴く。稚児は謡曲「枕慈童」の菊慈童の姿をうつした「菊丸」。唐破風造りの屋根、真木には「菊水鉾」の篆額(てんがく)を掲げ、音頭取りが烏帽子をつけ、扇子のかわりに「福寿海無量」と書かれた団扇を持つのも唯一で、一見して見分けがつきやすい鉾。平治の戦火で消失、残った懸装品を他山鉾に譲渡し、復活は絶望的と言われたが、1952年(昭和27年)に復興した「昭和の鉾」。 その際、装飾品は日本画家の三輪晁勢、工芸染織家の山鹿清華ら昭和の匠たちの協力を得てすべて新調。 2001年、再興以降町会所として使用していた金剛能楽堂が町内から移転し、祇園祭への参加が心配されたが、跡地に新築されたマンションの2階部分を買い取り、町会所とした。マンションを町会所にするのは、32の山鉾町で初めてのこととして話題となった。
【月鉾】
つきぼこ
四条通室町西入ル月鉾町 鉾頭に三日月を戴くことから、こう呼ばれる。 天王座には「月読尊(つくよみのみこと)」を祀る。天明の大火、幕末の戦火に見舞われたが、月鉾は一部を焼損したのみで奇跡的に焼け残り、江戸後期の美術爛熟期の充実した装飾を多く残す。当時の匠の技の粋を尽くした絢爛豪華な細工の数々は、動く美術館と讃えられる。破風蟇股のうさぎの彫刻は左甚五郎作と伝えられる。屋根の棟先には3本足の烏を乗せる。3本足の烏は太陽の寓意であり、月の兎に対応させたものと思われる。屋根裏の草花図は円山応挙筆、天井の「源氏五十四帖扇面散図」は岩城九右衛門筆など、名品が多い。稚児人形は「於兎丸」。前掛は17世紀インドのムガール王朝のメダリオン段通。
【鶏鉾】
にわとりぼこ
室町通四条下ル鶏鉾町 古代中国の故事「諫鼓(かんこ)」より。諫鼓とは、天子を諌める者に打ち鳴らさせるため、朝廷門外に置かれた太鼓のこと。堯の時代、善政のため鼓を鳴らす必要がなく、鼓はやがて苔むし、鶏が巣をつくるような有り様であったという故事で、「諌鼓苔むす」といえば、太平の世の象徴。鉾頭は三角形に円をあしらったもので、諌鼓に卵がある様子を表している。前掛はペルシャ緞通。見送は16世紀のベルギー製タペストリーで、「イーリアス」の一場面、トロイの王子ヘクトールと妻子の別れを描いたもの。重要文化財指定。このタペストリーは、全部で5枚の連作の一部であったと考えられ、鯉山、白楽天山の見送などがそれに含まれる。この「ヘクトールと妻子の別れ」は1枚を数枚に裁断し、左半分が鶏鉾見送に、右半分が滋賀県鳳凰山見送に、さらに裁断片数枚をはぎ合わせて霰天神山前掛が作られた。稚児人形は文久3年(1863)山口源ノ光好作と伝えられるが、名前は不祥。華麗な鶏の冠をかぶる。
【放下鉾】
ほうかぼこ
疫病除けのちまき 新町通四条上ル小結棚町 「放下」とは、禅語で「ほうげ」と読み、悟りを拓くためすべての迷いや執着を捨て去ること。のちには一切の妄執を捨て去り、技芸に精進することを言った。天王座に放下僧の像を祀ることからこう呼ばれる。鉾頭は日・月・星の三つの光りが下界を照らす様子を表す。もともと生稚児を乗せていたが、昭和4年以降、久邇宮多嘉王殿下命名の「三光丸(稚児人形)」に代わる。稚児人形としては唯一の操り人形で、鉾上で稚児舞いを披露する。榊の形も他の鉾とは異なり、桧扇型と呼ばれる半円型をしているのが特徴。
【岩戸山】
いわとやま
新町通高辻上ル岩戸山町 日本神話の「国生み」と「天の岩戸」から。
御神体の人形は、天瓊矛(あめのぬぼこ)を持った伊邪那岐命(いざなきのみこと)と、鏡を胸に掛けた天照大神(あまてらすおおみかみ)、手力男命(たぢからおのみこと)の3体。鳥居には、天の岩戸神話に登場する「常世長鳴鳥(とこよのながなきどり=鶏)」が止まっている。屋根の軒裏には、国生み神話に登場する鶺鴒(せきれい)が描かれ、神話尽くしの山。室町末期に曳き山に改造されたが、真木ではなく山である名残りの松を立てている。前掛は中国の玉取り獅子段通で、胴掛は18世紀の花模様ペルシャ段通。
【船鉾】
ふねぼこ
安産のお守り 新町通綾小路下ル船鉾町 九州熊襲(くまそ)征伐の折、夫である仲哀天皇が陣中で亡くなられ、神功皇后が懐妊中にもかかわらず、男装して出陣、勝利をおさめ、無事応神天皇を御産みになったという神話から。御神体は計4体。紺金襴の大袖、緋縅(ひおどし)の大鎧を着けた神功皇后と、それを加護する龍神、鹿島明神、住吉明神。神功皇后は岩田帯を巻いて巡行し、帯は巡行のあとで安産護符として妊婦に授与される。船を象った独特の形のため、真木がない。船首には、両翼端2.7mの大きな木彫総金箔の「鷁(げき)」と呼ばれる水難を避ける瑞鳥が据えられている。船鉾の宝中の宝とされる神功皇后の面は、室町時代の作と伝えられ、能成立以前の古様を残す貴重なもの。安産の霊験あらたかとされ、明治天皇御降誕の際には、宮中へ参内したという。「吉符入り」の日に、面に異常がないことを確かめるために行われる「神面改め」は、船鉾町では最も大切な行事のひとつ。
【芦刈山】
あしかりやま
綾小路通西洞院西入ル芦刈山町 謡曲『芦刈』に趣向をとった山。昔、摂津国難波に住む夫婦が貧乏のため離別し、妻は都へのぼり乳母として栄耀の身であったが、夫が気にかかり、会いに行くと、夫は芦を刈り売り歩いていた。夫は零落した我が身を恥じて陰に隠れて一首詠み、妻もそれに返歌し、和歌を詠み交わすうちに心も通いあい、めでたく元の夫婦仲にもどったという筋。御神体は右手に鎌を持ち、左手に芦を持った老翁の姿で、天文6年(1537)康運(運慶の子孫)作との墨書銘がある。御神体の古衣装の綾地締切蝶牡丹文片身替小袖(あやじしめきりちょうぼたんもんかたみがわりこそで)は天正(安土桃山時代)の銘があり、山鉾中最古のもの。当時の染織遺品は少なく、大変貴重な資料。重要文化財指定。
【油天神山】
あぶらてんじんやま
油小路通綾小路下ル風早町 町名は、町内に風早家という公家があったことから。その風早家に祀られていた天神様(菅原道真)の分霊をむかえ、作られた山。油小路の天神様なので「油天神」と呼ばれる。朱塗りの鳥居が特徴で、天神様と縁深い紅梅が松と一緒に飾られている。 見送は平成2年に、山所在地近くで生まれた故・梅原龍三郎画伯下絵の「朝陽図」綴織に新調され、話題になった。
【霰天神山】
あられてんじんやま
火除け・雷除けのお守り 錦小路通室町西入ル天神山町 永正年間(1504~1520)、京都に大火があったとき、急に霰が降り、猛火はたちまち鎮火した。 そのとき一寸二分(約3.6cm)の天神様が降ってきたのを祀ったのが由来といわれる。その縁起から、火避けの神様として霊験あらたか。 多くの山鉾が焼けた天明・元治の大火の際にも、この山は焼けずに残り、町内の誇りとなっている。前掛は16世紀にベルギーで製作されたタペストリーで、ギリシャ神話「イーリアス」をモチーフにしたもの。 上部は三叉の銛(もり)を持って海豚(いるか)に乗る少年、下部は花園に座る男女。鶏鉾の見送等を制作した際の裁断片で制作された。左胴掛は昭和60年新調の故・上村松篁下絵の「白梅金鶏図」綴織。上村淳之画伯原画の胴掛「銀鶏紅白梅図」と合わせて、京都の親子画家による掛装品となる。
【占出山】
うらでやま
安産のお守り 錦小路通室町東入ル占出山町 神功皇后が肥前松浦で鮎を釣って戦勝を占われた伝説を趣向とした山で、「鮎釣山」とも云う。安産の霊験あらたかで、「占出山のクジ順が早い年は御産が軽い」という言い伝えがある。皇室公家の信仰も厚く、安産御礼として女御や公卿の姫から多くの衣裳を寄進されたため、「占出さんは一番の衣裳持ち」との評判で、毎年違う衣裳を着ける。船鉾同様、御神体は岩田帯を巻いて巡行し、安産御腹帯として授与される。水引は天保2年(1831)に製作された「三十六歌仙図」で、各歌仙の肉入刺繍。現在は昭和60年に新調されたものを使用。天保2年に製作された前掛、胴掛は日本三景の綴錦。前掛は巌島、左胴掛は松島、右胴掛に天橋立が描かれ、昭和59年から平成2年にかけて復元新調。
【郭巨山】
かっきょやま
母乳の出を守るお守り 四条通西洞院東入ル郭巨山町 中国史話「二十四孝」の『郭巨釜掘り』の故事にちなんだ山。後漢の人・郭巨は貧困の為、老母と三歳になる息子とを養うことができず、思いあまって息子を山中に埋めようと穴を掘ったところ、一釜の金を得、 母に孝養を尽くすことができた。『釜掘り山』とも呼ばれたが、明治4年改称。御神体の人形は郭巨とその童子で、天明の大火(1788)で焼失した後、寛政元年(1789)金勝亭九右衛門利恭により再製された。唯一、乳隠し(ちがくし)と日覆障子を備えた山。他の山では欄縁を用いるが、郭巨山では乳隠しと欄縁を重複して用いる。 金地彩色法相華文様の乳隠しと、桐、桜、菊の細密な厚肉透彫りの欄縁が互いに引き立てあう。授乳のお守りを授与するのは、乳隠しが由来。通常、山には屋根がないが、特徴的な日覆障子のため、遠目にもすぐそれとわかる。
【太子山】
たいしやま
知恵のお守り
身代わり護符
油小路通仏光寺下ル太子山町 現在の六角堂(紫雲山頂法寺/六角通烏丸東入)の縁起が由来の山。聖徳太子が四天王寺を建立するため良材を求めて山城国を訪れたとき、清水を汲もうと念持仏の如意輪観音像の厨子を傍らの木にかけておいたところ、厨子が木から離れなくなってしまった。太子はここにお堂建立を思い立ち、その杉の大木を建材とし、六角堂を建てたという。伝説に倣って、真木は山の通例である松ではなく杉。御神体の人形は、髪を鬟(みずら)に結った聖徳太子。右手に斧、左手に袙扇(あこめおうぎ)を持った太子が杉に斧を入れるところを表現。
【蟷螂山】
とうろうやま
西洞院通四条上ル蟷螂山町 「蟷螂の斧を以って降車の隧(わだち)を禦(ふせ)がんと欲す」という、中国の詩文集「文選」の言葉から。南北朝時代、この町内に住んだ公卿・四条隆資が後村上天皇を助け足利義詮の軍と戦い、戦死したことから、その勇猛ぶりを讃え、弱者が初めから劣勢なのを知りながら果敢に立ち向かう姿を風刺したこの言葉になぞらえて趣向したもの。山鉾中唯一昆虫を題材にした山。御所車の上に大きな蟷螂(かまきり)が乗り、車輪が回ると、蟷螂が首と鎌を動かし、羽を広げる。蟷螂は、からくり師玉屋庄兵衛による鯨の髭をばねに用いた精巧な人形。御神体がからくり仕掛けで動くのも唯一で、人気がある山の1つ。再三の火事に見舞われ、安政4年(1857)を最後に巡行が途絶えていたが、昭和56年に約100年ぶりに復活した。前掛、胴掛は友禅作家・羽田登喜男による彩色豊かな友禅染。
【木賊山】
とくさやま
迷子除け 仏光寺通西洞院西入ル木賊山町 謡曲「木賊山」より。 愛児をさらわれた翁が信濃の山奥で一人木賊を刈る姿をあらわしている。御神体は元禄5年(1692)の作で、町内で天王様と呼ばれる老翁の像。額に深いしわを刻み、悲しげに虚空を見つめる。雲龍模様小袖に腰蓑(こしみの)をつけ、渋茶色の水衣を着、右手に鎌を、左手に刈り取った木賊を持つ。
【伯牙山】
はくがやま
綾小路通新町西入ル矢田町 周の時代、琴の名人伯牙がその友人鐘子期の死を聞いて、自分の琴を真に聞いてくれる人はもういないと嘆き、琴を割ったという故事から。「琴破山」と称したが、明治4年改称。御神体は手に斧を持ち、琴を今にも打ち破ろうと見おろしている。
【白楽天山】
はくらくてんやま
学問成就・招福除災のお守り 室町通綾小路下ル白楽天町 唐の詩人・白楽天が道林禅師に仏法の大意を問う場面がモチーフ。白楽天の問いに、道林禅師は「諸悪莫作 衆善奉行(善いことをせよ。悪いことはするな)」と答えた。白楽天は半ばあきれて「そんなことは3つの子供でも知っています」。「左様。しかし80の老翁でも行い難いことなのだ」。 白楽天は道林の徳にいたく感服して帰ったという。前掛はトロイ落城を描いた16世紀コブラン織の名品で、万延元年、蟷螂山より購入。鯉山の見送等とは連作で、同じく「イーリアス」の一場面を描く。滋賀県大津祭の2つの山のものと元同じ織物だったものを裁断して製作された。
【保昌山】
ほうしょうやま
縁結びのちまき 東洞院通松原上ル燈籠町 御神体は「四天王」のひとり、丹後守・平井保昌(ひらいやすまさ)。保昌は恋した和泉式部に紫宸殿(天皇が執務する宮)の梅を手折って欲しいと請われ、夜中に宮中に忍び入って梅を手折り、式部に差し上げ、恋を実らせたという。そのため、かつては「花盗人山」と呼ばれたが、明治4年改称。恋がテーマの山として、縁結びのちまきを配る。前掛と両胴掛の下絵は、円山応挙の円熟期の手になるものとして有名。この貴重な下絵は屏風に仕立てて博物館に保管され、宵山に町内に里帰りする。水引は孔雀の羽を縫い込んだ珍しいもの。水引と前、胴掛とも刺繍で、縫い技の素晴らしさを堪能できる。
【孟宗山】
もうそうやま
親孝行のお守り 烏丸通四条上ル箏町 中国史話「二十四孝」の1人、孟宗が病身の母のため雪中に筍を掘った話を趣向とした山で、筍山とも。町名が笋(たかんな=たけのこの古名)町であったことから。
御神体の孟宗は、七条大仏師康朝左京の作といわれ、左手で鍬を担ぎ、右手で掘り出した筍を持って嬉しそうに家へ帰って行く姿を表している。見送は、八坂神社の氏子であった竹内栖鳳による水墨の孟宗竹。彩色豊かに飾られた山鉾の中で、唯一肉筆墨画の見送として有名。欄縁は竹内栖鳳の師・幸野楳嶺下絵による群鳥図。鳳凰、孔雀、鷹、鴨、鴛鴦、鴬、山雀(やまがら)など15種類の鳥が彫られている。
【山伏山】
やまぶしやま
火除け・雷除けのお守り 室町通蛸薬師下ル山伏山町 御神体の山伏は昔、 八坂の法観寺の塔が傾いた時に、法力でなおしたという浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)の大峰入りの姿をあらわしている。浄蔵貴所は、父を生き返らせ葬列を後戻りさせた「一条戻り橋」の伝説で有名な人。明治の神仏分離以前の姿を残す山で、八坂神社神官の後に聖護院から山伏が来て祈祷する。
【綾傘鉾】
あやがさぼこ
綾小路通室町西入ル善長寺町 祇園祭の源流を伝えるといわれる風流傘の型を残す貴重な鉾。他の鉾とは趣きを異にし、鉾頭がなく、傘を立てる。傘の上には御神体の金の卵を持つ鶏が乗る。
【四条傘鉾】
しじょうかさぼこ
四条通西洞院西入ル傘鉾町 応仁の乱以前に起源を持つ古い鉾の姿を伝える。織物の垂りをつけた傘と棒ふり囃子が巡行する形態である傘鉾の一つで、傘の上に赤御幣と花瓶に若松を飾っている。元治の兵火の後、明治4年の巡行を最後に姿を消していたが昭和六十年に傘鉾本体が再興になり、昭和63年に踊りと囃子が復元され、巡行に参加するようになった。踊りと囃子は、室町時代に京に流行った風流踊。滋賀県の滝樹(たき)神社に伝わる「ケンケト踊」を参考に復元された。
【北観音山】
きたかんのんやま
新町通六角下ル六角町 応仁の乱前後から南観音山と隔年交替で巡行していた。「上り観音山」とも。くじ取らずで後祭の最初を行く。元はかき山だったが、文政元年(1828)~天保2年(1831)にかけて曳山(ひきやま)に改造された。本尊(御神体)は揚柳観音と韋駄天(いだてん)で、室町時代の作。天明の大火(1788)では揚柳観音の御顔だけが難を逃れ、御胴は大仏師法橋定春によって再製された。前掛は19世紀のメダリオン中東連華文様絹ペルシャ絨毯。 胴掛は幾何華文様ペルシャ絨毯。 後掛は19世紀の中東連花葉文様ペルシャ絨毯。
【南観音山】
みなみかんのんやま
新町通蛸薬師下ル百足屋町 山鉾巡行で、くじ取らずで最後尾を行くため、「下り観音」ともいう。御神体の楊柳観音像(ようりゅうかんのんぞう)は、鎌倉時代の作だったが、天明の大火で頭胸部だけが残り、他部分は童子像とともに江戸時代の作。諸病を防ぐといわれる。巡行には柳の大枝を差し、山の四隅には菊竹梅蘭の木彫り薬玉をつける。
【橋弁慶山】
はしべんけいやま
蛸薬師通烏丸西入ル橋弁慶町 謡曲「橋弁慶」を題材にした山。御神体は五条大橋で弁慶と牛若丸が戦う姿。人形には永禄6年(室町時代末期)、大仏師運慶の六代目の孫、康運作の古い銘がある。橋に高下駄の歯1本で立つ牛若丸は、たった1本の金具で固定されている。浄妙山と並ぶ、躍動感溢れる御神体。水引は「百児喜遊図綴錦」。胴掛は円山応挙の下絵による葵祭の様子を描いた「綴錦賀茂祭礼図」。前掛は昭和58年作、富岡鉄斎筆の椿石図綴錦。後掛は「雲龍文」の刺繍。
【役行者山】
えんのぎょうじゃやま
室町通三条上ル役行者町 役行者が一言主神を使って葛城山と大峰山に橋を懸けた伝説に題材をとった山で、御神体は役行者と一言主神(ひとことぬしのかみ)と葛城神(かつらぎのかみ)。
【黒主山】
くろぬしやま
室町通三条下ル烏帽子屋町 謡曲「志賀」から、六歌仙の1人・大伴黒主(おおとものくろぬし)が桜の花を仰ぎ眺める姿を表す。御神体の人形は大伴黒主で、寛政元年(1789)辻又七郎狛元澄作の銘がある。
【鯉山】
こいやま
立身出世のお守り 室町通六角下ル鯉山町 鯉が滝を昇って龍となるという中国の故事「登竜門」より。御神体は。龍門の滝を登る鯉の姿で、左甚五郎作といわれる。前掛、銅掛、水引、見送等は「イーリアス」の場面を描いた16世紀のゴブラン織で、重要文化財。図柄はトロイのプリアモス王とその皇后ヘカベー。現在は、巡行には復元品を用い、オリジナルは会所に展示している。
【浄妙山】
じょうみょうやま
勝守 六角通烏丸西入ル骨屋町 平家物語の宇治川の合戦(木曽義仲と源義経の戦い)より、筒井浄妙と一来法師の先陣争いを趣向とする。平家の大軍を相手に、 橋をはさんで奮戦する三井寺の僧兵浄妙の頭上を、味方の一来法師が「悪しゅう候、ご免あれ」と飛び越える一瞬をとらえている。浄妙僧の頭に一来が左手を着き、飛び越えるというアクロバティックな人形は、人の形をした木を心材にして作られ、浄妙の頭に一来の腕を楔で繋ぎ支えている。橋弁慶山と並んで、山鉾中白眉の出来。水引に波涛文の彫刻、胴掛は以前は「ビロード山」の異称のもととなったビロード織の琴棋書画図が用いられていたが、昭和60年、長谷川等伯の柳橋水車図綴錦に新調された。見送に本山善右衛門の雲龍文のかがり織。町内で所有する、浄妙坊が着用したという黒韋縅肩白胴丸(くろかわおどしかたじろどうまる)は室町時代のもので、重要文化財指定。
【鈴鹿山】
すずかやま
雷除け・安産のちまき 烏丸通三条上ル場ノ町 伊勢鈴鹿山で悪鬼を退治した鈴鹿山権現(瀬織津姫命/せおりつひめのみこと)を御神体とした山。御神体は金の烏帽子をかぶり、赤地錦の鬘帯(かずらおび)、白繻子小袖に緋の大口袴、紫地金襴表着は右肩を外し、腰に太刀をはき、左手に大長刀、右手に中啓(ちゅうけい:扇子)を持つ。神面を着け、顔が見えないが、人形は巴御前をモデルにしたと言われ、山鉾きっての美女と称される。松には鳥居、松、木立に宝珠を描いた絵馬が飾られ、御神体の前には杉が立てられ、山中を表す。山洞には退治した鬼を表す赤熊が飾られる。
【八幡山】
はちまんやま
夜泣き封じの鳩笛と鳩鈴 新町通三条下ル三条町 町内に祀られている八幡宮を山の上に勧請したもの。
総金箔貼の美麗な社殿は天明年間(江戸後期)の作で、普段土蔵で保管され、巡行日のみ山台上に飾られる。山の前縁には朱塗の明神鳥居が据えられ、鳥居笠木に止まる木彫り鳩は伝左甚五郎作。

用語解説

音頭取り おんどとり 巡行時、鉾や曳き山の前部に乗り、扇子をかざし、かけ声をかける人。通常2人だが、辻回しの際は4人で音頭をとる。
懸装品 けそうひん 鉾、山を装飾する染織品や工芸品。染織品の中には16~17世紀のベルギー、ペルシャ製のものも多く、往時の東西交易の歴史や、祭を支えた町衆の富裕を窺わせる。巡行時につける第一の他、第二、第三と数種類ある。
真木 しんぎ 鉾の中心に立つ木。上から鉾頭、ふきちり、小屋根の下に天王座(てんのうざ)、赤熊(しゃぐま)と呼ばれる飾り結び、そして多数の紙垂(しで)と呼ばれる小さな白幣を付けた榊がある。榊付近からは数本の屋根方用の命綱が下がり、紺色のしゃぐま垂れを乗せた帽子のような朱色に押絵紋の網かくしがあり、屋根へ榊(さかき)、などの飾りをつけ、頂に鉾頭をつける。
乳隠し ちかくし 「乳」とは、胴掛をかけるための胴掛上端の穴のこと。これが目障りなので、飾り板を戸付け、隠した。乳隠しが進化したものが欄縁。
辻廻し つじまわし 前後真直ぐにしか動かない鉾を、曲り角で方向転換させること。縦に裂いた青竹を車輪の下に差し込み、滑りやすくするため竹にたっぷり水をまく。総重量20トンにもなる鉾を無理矢理回すため、鉾が大きく揺れ、うまく回れば見物客から歓声があがる。
天王座 てんのうざ 真木の中程に位置し、厨子の中に人形を飾る。神聖が強く、厨子の四方を布でおおい、人目に触れないように配慮している。見物人は真下から上を見上げると、御神体を窺うことができる。
前掛 まえかけ 垂らして山鉾の前面を覆う掛け物。ペルシャ絨毯やゴブラン織など、贅を凝らした壮麗な織物が多い。
見送 みおくり 垂らして山鉾の背面を覆う掛け物。ペルシャ絨毯やゴブラン織など、贅を凝らした壮麗な織物が多い。
水引 みずひき 前掛け・胴掛けの上部を引き回す
胴掛 どうかけ 垂らして山鉾の側面を覆う掛け物。

山鉾マップ