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7月1日〜31日 八坂神社
京の夏の風物詩

コンコンチキチン、コンチキチン、コンコンチキチン、コンチキチン…祇園囃子は、京都に夏の到来を告げる音色です。
山鉾巡行を山場とする京都の祇園祭は、大阪の天神祭、東京の神田祭と並んで日本の三大祭と言われます。
古くは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれ、東山区祇園に位置する八坂神社の例大祭です。
その発祥は1100年前に遡ります。貞観11年(869)、疫病が流行した際、疫病退散を祈願したのが始まりです。
当時、疫病は怨霊や疫神のしわざとされていました。神を祭り、その勘気を鎮めることによって悪疫から逃れられると考えられていたのです。「これは祇園牛頭天王の祟りである」として、当時の国の数−66ヶ国にちなんだ66本の鉾を神泉苑に立て、神を祭り、さらに神輿を送って災厄の除去を祈りました。
そして、天禄元年(970)に「毎年の儀」となって以来、千年余にわたって、各山鉾町の町衆によって受け継がれてきています。

戦乱や大火などで幾たびか消失した山鉾もありますが、一部を除き、町衆の手によって復興再建されてきました。
山鉾を装飾する絢爛豪華なタペストリーや絨毯には、祭を支えてきた京の町衆の経済力が伺えます。
17日の巡行を終え、祭の熱気が去る頃、梅雨が明け、京都も夏本番を迎えます。

祭礼日程と祭の主役

祇園祭というと、宵々山、宵山と17日の山鉾巡行がすべてだと思われていることが多いのですが、実は1日の「吉符入り」から7月31日の「夏越祭」までの1ヶ月間に渡る祭礼です。
また、観光の目玉となっているのは各山鉾の壮麗な巡行ですが、実は山鉾は神輿の露払いであり、神事の主役は17日夜に行われる神幸祭の神輿渡御(みこしとぎょ)です。
かつては、神輿が八坂神社から四条京極のお旅所へ渡る「さきの祭」である神幸祭、お旅所から八坂神社へ還る「あとの祭」の還幸祭として、17日と24日の2日にわたって山鉾巡行が行われていましたが、現在の交通事情をふまえ、17日に統合されました。
今ではあとの祭の代わりに花笠巡行が行われます。
→日程表


動く美術館〜鉾と山〜

発祥当時は66基の山鉾がありましたが、現在巡行しているのは鉾が9基、山が23基。
鉾の最大のものは重さ12トンにもなりますが、その組み立てには釘を一切用いません。縄だけを使って、「縄がらみ」と言われる伝統の手法で組み立てます。毎年組み立て、解体してしまうのですから、釘を抜き差しするよりも簡単で合理的です。そして、縄を用いて組み上げることによって、柔軟な構造に仕上がり、巡行に耐えられるのです。もし釘や金具を使った場合、囃子方などを含めて20トンにもなる鉾に車輪を付けて動せば崩れてしまうと考えられます。
この縄がらみも、山鉾によって違う手法があり、伝えられてきた技の美が感じられます。
鉾は屋根に長大な鉾(槍のような武器)を戴き、高さ約25メートル、4つの車輪は直径約2メートル、2階に囃子方を乗せます。
山は、鉾よりは規模が小さく、1.2〜1.6トン程度。屋根に松(太子山は杉)が立てられます。山のうち3基は車輪が付いた曳山(ひきやま)、残りは人がかつぐ舁き山(かきやま)です。各々縁起に関連した御神体を乗せ、曳山には鉾と同じく囃子方が乗ります。
各山鉾に立てられた鉾と松は、悪鬼や疫神を吸い寄せるための依代(よりしろ)です。本来は疫病神と一緒に鉾や松を焼き捨てていたようですが、山鉾が豪華になるにつれ、そうもいかず、江戸時代以降は早々に片付ける習慣となりました。そのため、山鉾巡行は午前中に終わり、各町内へ帰ると即解体、収納されます。
各山鉾とも、祭神の縁起や由来により、縁結びや魔除けなど、それぞれ異なる護符(ごふ)を配っています。希望の護符を求めての宵山見物も良いのでは。
→各山鉾解説
→山鉾マップ

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京人形商工業協同組合